県教組女性部学習会


県教組女性部学習会

2004.8.4(水) 教育会館

「女性運動の歴史に学ぶ」 退女教のみなさんにお話を聞きました。

【開会あいさつ・基調報告】(田中加寿子女性部長)
今年は退女教のみなさんをおむかえしてお話を聞く。これまでの苦労と権利獲得の歴史。組織拡大に生かしてほしい。

日教組サマースクールでの「女性部運動のあゆみ」より基調報告を

・「封建の鉄鎖を自分たちの手でたちきれ」を合言葉に婦人部のたちあげ。
・「校長のお気に入りの女性から昇進」という信じられない話。
・「共働きのひとから退職勧奨」←「人間の壁」という映画
・はじめはずっと「たたかい」 その後「とりくみ」へ  言葉は変わっても気持ちは「たたかい」と思ったほうがいい。
・「平和のあるところに平等がある」 今は非常にあぶない時代。
・女性の意見がはっきり言える場が大切。女性参画を。

今日はこういった歴史がもっと身近に感じられるお話を聞ける。

【退女教のみなさんのおはなし】

自己紹介
(太田さん)退職して5年。みなさんの若さからエネルギーを吸収したい
(橋場さん)やめて20年になる
(仁尾さん)これからも交流できるといい
(高瀬さん)日ごろのご協力に感謝 今日は、退女教の2番目の柱「現職との交流」を
(中西さん)やめて10年 退女でいろんな方と出会いうれしい
(森井さん)やめて15年 今日は日宿直の話をする
(福田さん)今年71才 退職して11年 県教組の専従で退職した 今日は昼寝をしないでがんばります

☆出産にからんで
(仁尾さん)産前は一週間しかなかった。他の人の状況(宿直室で産んだ、遠足の場で産気づいた)を聞くと「6週間ほしい」と言えなかった。産前もっとしっかり休めれば、後遺症も楽だったかも。人に聞くと、どこの郡市も状況は同じだった。民間はちゃんと6週間とっていた。労働基準局の人は5週間。 近所の人にたのんで、宿直室に赤ちゃんを連れてきてもらって母乳をのませた。休み時間の間になかなか飲ますに苦労した。
(橋場さん)ことじ会の会員に聞いた。かわりの人が最後までこなかった。なかなかみんなにもうしわけなくて休めなかった。心遣いしてくれた校長も。ダブり配置の経験はない。ひきつぎができずに大変だった。管理職に 「1しゅうかん早く出て来い」といわれたが、しゅうとがことわってくれた。「1日でも早く出てきたらだめだぞ」と言ってくれた校長も。
(高瀬さん)ふたりとも産前がなかった。「へたな時期に産むなあ。よわったなあ。」と管理職に言われた。ただひたすらあやまった。授業中に陣痛。「休む間の準備をしていけ」と言われた。いっしょうけんめい準備をした。産まれたのは未熟児。かわりの人がこないので学級が解体になり、他のクラスといっしょに。定石の先生がかばってくれた。「女はつらいね」と。産んだ後も「早くでてこい」と電話が。
女性部の産前産後の運動に積極的に参加した。そのひとつひとつのつみかさねで、今がある。「わたしたちがやらなくちゃだれがやる」という気持ちだった。今、わたしたちがまいた種をみなさんでひろめてほしい。
鳥越の先生が身重で川で子どもを助け・・・

☆日宿直の権利闘争
(森井さん)日直に行くことは苦痛だった。夫が休みでも・・・。僻地の学校。誰かが遊びにくることもあれば、こないことも。トイレにいくのもこわかった。広島で「女性が日直をしていたら男のひとが・・・」という記事を読み、不安に。支部の50年史をつくるときにかかわった。これにも書いてある。宿直もした。どろぼうがはいったり、火事になったりもしたそうだ。男1人と女2人で。ごしんえいをもってでるために3人。正月や暮れも。いろいろな闘争をするうちになくなった。

☆退職勧奨にかかわって
(高瀬さん)先輩のすてきなM先生が、退職勧奨をうけた。教育長が学校にはいってきて・・・。男性が「女やからしかたないな」 M先生はずっと校長室にいて、その後トイレで泣いていた。とうとう3月に退職された。女性部で総括した。「夫を管理職にしたいのなら」「息子を就職させたいのなら」「PTAになんと言われているか知ってるか」 断ると報復人事が・・・。行った学校でもまた言われる。 45才で勧奨がはじまる。 1人じゃとってもよわいので「かたまろう!!」 女性部で学習会。ことわる方法も。みんなでことわるとりくみを。 「こんなつらいおもいをした先輩のためにも、絶対60までつとめるぞ!!」と思った。  このわたしたちの種をみなさんの手で、育ててほしい。 県庁の廊下にすわりこんだりしたことを思い出す。保護者にも理解を求めた。女教師であるがゆえに体験する屈辱感がたくさんあった。中学3年をもてなかった など。
(中西さん)組合の集会が夜にあった。帰ろうとする女性に男性は・・・。  学校が荒れているとき男性のほうがだめ。いざとなったら女性のほうが強かった。

☆小松支部に婦人部のたちあげ
(太田さん)いつのまにか組合に入っていた。小松支部に婦人部がなかった。だんだん「小松支部に婦人部を作らないと」という声が男性から。県にはあったので、担当執行委員(男性)が「なんでわしらが女のことをせんなんげん」 何人かの女性に声がかかり、話し合いをはじめた。婦人部長と担当執行委員を女性にすることを内々に話し合った。なにもないところからはじまった。まず、規約を。 多くの女性は、何もしないで楽をして、手に入れた権利は使っていた。ので、スタートのころは、反対意見との戦い。 権利意識をもっていなかった女性の先生たちをその気にさせることは本当に大変だった。内部でのたたかい。しかも同じ女性どうしの。
女性部の活動にできるだけ参加させていただいて、いっしょにやっていきたい。勝ち取ったものを大切にしてつないでいってほしい。


☆退女教の歴史、活動
(高瀬さん)1968年にできた。退職後の生活苦がきっかけ。「なんとかして、弱いものがあつまろう」と。「美しき生涯を」を合言葉に。それと、戦争でいためつけられ、教え子を戦場に送った反省のふたつから、退女教が。
針灸マッサージの補助券交付の運動をしている。まず、調査から。地域の人も仲間にいれながら。1円玉募金でフィリピンの女性の自立の支援を。学生協の運動にも参加。
「やめてからはいるところがある」というのは、うれしいこと。退教と分かれている不自然さにも気づき、いつの日か手を携えあいながら行きたいと思っている。
(仁尾さん)会員が増えないことが悩み。特に金沢。

☆夏休み帳の編集委員として
(高瀬さん)夏休み帳がわたしたちの誇りであり、喜びであった。すべての力を集めて作った、という誇り。なかまとの強いつながりができた喜び。取材を通じて保護者ともつながった。今の苦しい状況はわかる。みんなが集まって苦しみを爆発させるようなことができないか、と思う。許してはいけないことがある。わたしたちもいろいろな闘争をしてくるなかで、保護者はわかってくれた。ひとりで苦しんでいないで大きな力に。そのための協力をしたい。
(森井さん)子どもに買った。見せたらすごく喜んだ。夏休み帳は子どもに魅力がある。

☆平和への願い
(中西さん)戦争は人間否定。5年生のとき、父、兄と分かれ、1年かかって満州からひきあげてきた。何十キロと歩いた。日本の女性もたくさんひどい目にあった。すべて戦争がもと。「祖国へ帰りたい」と言いながら多くの人が亡くなった。船から見えた日本は美しかった。
戦争の怖さを知らない人が増えていくのがこわい。戦争は人間を人間でなくする。

【質問】

(鳳輪)今年、女性部長。戦争体験はないが、夏休み帳など、平和教育は大切。

【オブザーバーより】(福田孝二さん 退教協)
・労働条件はどうなっているのか、と最近おもう。
・権利の行使には勇気がいる。いろいろな処分もうけたが、それほど抵抗した。権利の行使を日常的に意識して、なかまとともに。
・子どもを育てるとは、みちくさをすること、無駄をすること、まわりみちをすること。効率や形式で子どもは育たない。
・敗戦のとき、6年生だった。「赤い月」を思い出した。護国神社の大東亜聖戦貸大ひには、おかだなおきが名を連ねている。

【閉会あいさつ】(田中女性部長)
よわいものどうし手をつないでいきたい。

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